「”緑の”・・・・・・・”葉”」





聞きなれない言葉に私は首を傾げた。

それが今回の防衛対象であり、レンレイの狙う芸術の一つだということは理解できる。

しかし、今までレンレイが狙ってきたものは全て”メジャー”なものなのだ。

ダナエはともかく、銀時計は偽物といえど一時期、TVのドキュメンタリー番組で放映されたもの。

それなりの知名度を持つものを彼は盗んでいく。

その知名度が”緑の葉”には感じられない。

画家さんには失礼だが、何故レンレイが狙うのか皆目見当も付かない。

「10年前に事故死した【遠藤 雄一郎】という細工師の残した作品が近々、個展に出品されるそうだ。レンレイは、その期に乗じて盗むつもりだろうな」

「遠藤・・・・雄一郎」

やはり、知らない。

「細工師、というのは?」

「あぁ、言い忘れていた。今回の彼の獲物である”緑の葉”は絵画ではない。絵画を納めるための”額”なのだよ」

「”額”って、額縁の”額”ですか?」

「うむ。その”額”じゃ。・・しかし、何故彼は”額”など盗むのかのう?」

分かる筈がない。

絵画以外の芸術品を盗むことは度々あるのだが”額”を盗むというのは初めてだ。

彼が盗むというのだからそれなりの価値が・・・いや、これはもしかして。

「【長官】」

「なんじゃ、【獏羅】クン?」

「長官は【夢魔】というものをご存知ですか?」

電話の先で警察庁長官【一ノ太刀 鬼丸】は呻いた。

それはどう答えるものかを逡巡する躊躇いの呻き。

っていうか長官が知らない筈はない。

警察のトップだし、あれだけ強く、正義感もある。

そんな人があんな化け物を野放しにしておくとは思えない。

「知っているんですね?」

「あぁ、知っているとも。戦ったこともある・・・・・・レンレイか」

「はい」

「彼にも困ったものだな。それで・・・”緑の葉”に魅入られた人間の救済の為、彼はそれを盗む、と。そう言いたいわけじゃな?」

「はい」

「恐らくそうだろうな。しかし、どうする? 仮に”緑の葉”を守り切ったとして、相手が夢魔では・・・・・・」

「倒します」

「ムリだ」

即答?・・・・ちょっとムカつく。

「何故です?」

「じきに分かる。犯行予告時間は来週の火曜日、22時ちょうどだそうだ。いつもそうだが、キミに全権を委ねる。よろしく頼んだ」

電波の切断音と共に長官の声は消える。

相手があんな化け物でも、私は戦わなければならない。

アイツにできるんだ、私だって・・・。

「倒す」

一ツ橋高校、誰もいない昼休憩の屋上。

私はフェンスに頭を押し付けながら、小さく決意した。

これが私――――【獏羅 香織】と【夢魔】との初めての繋がり。

私のストーリーの幕開け・・・。











「ユッキー、お客さんだよ〜?」

という薫さんに声を掛けられるまで、俺は来訪者の存在に気付くことはなかった。

「はい、分かりました」

時間的に先ほどの獏羅の電話から3日遡る、朝の11時を回った土曜日、昼食の準備は思いのほか忙しい。

俺は火を止め、一応元栓を閉め、濡れた手をエプロンで拭きながらリビングを抜けて玄関へと向かった。



「ユッキ〜、いますか〜?」



その嗄れた声は・・・・・・・隣人のφ。

差し詰め空腹に耐えかね、食料を求めて扉を叩いたか・・・。

φは知る限り、早朝の散歩以外あまり出歩かない。

食料関係は週に一度まとめて買出しに行くようだが、週末になるとこんな風に死にそうな声で、無装備で戦場に放り出され被弾した3等兵の如く助けを求めてくるのだ。

俺は今日もその類だろうと思い、扉を押す。

「お待た―――」

扉との僅かな隙間にφさんの細い指が割って入る。

「ど、ど、ど、どど――――」

予想もしなかった行動に俺はどもった。



そのまま凄い勢いで引き開け、俺の胸倉を掴むと一気に引き寄せた。

相変わらず髪で覆われている部分は窺えない。

しかし、見えぬ彼の形相に俺は確かに畏怖している。

殺気は微塵も感じさせない、迫力プレッシャーの波。

恐らくその波は今まで俺が見てきたもの全てよりも高く、荒い。

殺される。

殺気と迫力の区別の付かない人間ならそう思うだろう。

薫さんが出なくてよかった、本当に。

俺だから嫌な汗が全毛穴から放出され、夏の暑さとか関係なく、Tシャツがダメになるぐらいですんだのだから。

「どうしたんですか?」

やっと言い出しの「ど」から言葉を紡いだ。

俺は出来る限り平静を装い、意識だけをφの言葉に向ける。

「薫さん、意外と勘が鋭いので詳細は後で。昼食後、私の部屋に来てください、1人で。あと・・・」

言いながら彼は自分の右手を俺に見せ付けるように差し出す。

血の臭いが鼻を突く、その手は真っ赤だった。

「”技術”による身体異常は、やはり”アレ”にならないと治せないんでしたよね?」

「はい・・・・・・残念ながら」

「分かりました。それではあとで」

それだけ言うと扉を閉め、φは俺の視界から消える。

同時に嫌な汗は止まり、変わりに胃腸が不快を訴える。

「あの部屋に入らなければならないのか・・・」

部屋に入る。

それだけの行動で胃腸が痛くなるほど潔癖症でもなければ、他人との交流を極力嫌うわけでもない。

あの部屋だけは好きになれない。

俺が唯一、φの嫌いな所を上げるならそこだろう。

「それも・・・昼食後」

適当に薫さんには何か食べさせて、俺は飯抜きがよさそうだ。











「と、いうわけなので行ってきます」

何が、というわけでなのかは省かせていただこう。

「はいは〜い、いってらっさいな♪♪」

そして、何故薫さんが上機嫌なのかもこの場では面倒なので説明しないことにする。

ともかく俺は見送る薫さんの声を背に家から出て、短い廊下を歩き、隣家のドアノブに手を引っ掛けた。

「それにしても」

この扉だけは、やはり違う。

内部だけではなく外部にまでも振り撒く重々しく禍々しい空気は、そういう気配に敏感な俺にしか気付くことはできないだろう。

そこは天国への扉。

しかし、真の意味で天国か地獄かを問われれば地獄と即答してしまうだろう。

ただのアパートの扉が城門(しかも要塞級)に思えてしまう。

これが意識的なものでよかった。

ドアノブに触れた瞬間鍵穴から蛇がオハヨウ、開いたと思ったら血の気のない真っ白な手がコンニチワ、特殊なゴム手袋をはめなければ10万ボルトの電流がコンバンワなどされた日には卑怯かもしれないが大家さんへ通告も余儀なくするだろう。

そうさ、俺のバックには大家さんがいる。

φがキライなわけじゃない、しかし、我が身も大事なのだ。

「勝負!」

何とだ。

俺は一気にドアノブを捻り、ゆっくりと引く・・・普通逆――――

視線を落とす、腕に。

そこには――。

「コ、コ、ココココ、コンニチワ」

純白のワンピースを纏った、雪そのものといえる少女の手が縋るように掴まれていた。







脂汗が額を伝って顎から落ちる。

今体重計に乗れば3キロは痩せているだろう。

真昼間だというのに薄暗い廊下を忍ぶように進む。

隣りを歩く少女も同じように身長に一歩一歩を踏みしめている。

この少女がどういう人間なのか、俺は知っている。

無表情で感情を窺わせない少女だ。

初めはそう思った。

しかし、見るからにお嬢様育ちの気品溢れる少女が、この威圧感に圧され、無表情であり続けることなど有り得ない。

無表情で感情のない少女なのだろう。

だが、そんな彼女の無表情が俺を安心させてくれるのも事実だ。

事情の知らぬ者から見れば、根性のある強気な子が第一印象になると思う。

事実、彼女の足並みは俺に比べて前向きだし、俺が彼女の背に隠れているようにも見えなくもない。

「(強い子だ)」



椿山荘は、どの部屋も部屋数が違うだけで構造は同じなので廊下を突き当たって扉を抜ければ、リビングである。

そして今再び、俺・・・いや、俺達は扉の前で立ち止まっている。

開けて良いものか、悪いものか、その二択が生死を分ける決断の如く圧し掛かってくる。

獲物を追う虎の殺気の如し重圧は、この扉の先から漂っている。

扉を開けば、虎とご対面だ。

「開ける?」

情けないことに俺は隣りの少女に問うた。

彼女と同じ無表情で聞いたつもりだが、彼女の美しくも儚い碧眼を前にして俺は本心を隠しきれるのだろうか。

ワンピースと同じ色の顔が俺を見上げ、僅かに傾いた。

「(開けろ、ってか)」

何故か、勇気付けられる。

「それじゃあ、行きますか」

俺は扉をゆっくりと開く。

身体の後ろから少女が中を覗き込もうと首を縦横と動かす。

可愛らしい、少女の動作だ。

少しニヤついた笑みを浮かべているだろう俺は、そのままの表情でリビングを見回した。

そこには――――。





”瘴気を纏い 全身を褐色に染めた化け物”がいた。





顔半分を覆った髪の隙間からグツグツと煮える紅蓮の瞳が覗いている。

「(死ぬ)」

俺は開きかけた扉を思い切り閉めた。

バタンッと大きな衝撃音に近い音が反響して耳を打つ。

どうしたの?と、少女は首を傾げる、やはり表情はない。

「見てはいけないものが世の中には沢山あるってことさ」

俺は彼女に微笑みかける。

彼女が先程の”俺の本心”を読み取ることができたならばこの笑みの真意が掴めるのかもしれない。

同情の愛想笑い。

φはこの子を助けようとしている。

直感的にだが、そう思った。











瘴気が沈んでいく。

感情の昂りが冷める時のように、ゆっくりと着実に。

その間俺達は扉の前でその時を待っていた。

その中で数回言葉を交わした俺達は互いの名前を知り合い、俺がφによって呼ばれたと説明すると彼女はそこで口を閉ざした。

兎にも角にも、彼女の名は【ゲルニカ】というらしい。

まぁ・・・この白肌と顔つき、碧眼にブロンドの髪から日本人でないことは確かだ(先ほどの歩幅と顔立ちから身長は150cm前後の14,5歳ってところだ)。

それにしても、ゲルニカか・・・。

1937年、フランコ派ドイツ空軍の爆撃により多くの命が奪われた町の名であると同時に、その愚挙の抗議意思を示すためにピカソにより描かれた大壁画の名でもある。

恐怖し、絶望し、嘆き、憤怒する町の人々を黒と白の世界で現したピカソの数ある名作中の名作だ。

そんな世界の”不審”にも負けず強く生きて欲しいという意志なのか、単なるピカソのファンなのだろうか。

いずれにしても普通の親が子につける名前ではない。

「なら、俺の親が普通だったのかと聞かれると、また微妙な話だな」

吐くように言った俺の声に反応して、ゲルニカが見上げてくる。

綺麗な子だ。

いるだけで場を和ませる、そんなタイプなのだろう、感情があれば。

「(φさんが怒るのも分かる気がする)」

「神谷さん」

「・・・・はい、なんでしょう?」

彼女はどうやら、あまり人見知りしないタイプらしい。

名前を知っただけの、ほとんど初対面の人とそうすぐに話せるものではない。

「φさんが入ってもいいそうです」

「そう言ったの?」

「えぇ、今」

「なら、入ろうか」

考え事をしていると周りに集中できなくなる、悪い癖だ。

扉をゆっくりと開いた。







リビングの中央、コタツテーブルを囲んで座る3人。

奇妙な人選だ。

悪魔2人と天使が1人。

神妙な面持ちでφはテーブル上の湯飲みを凝視している。

一方、天使ことゲルニカは無表情で同じように湯飲みを眺め、俺はその様子を交互に見ては苦笑する。

似ている、雰囲気が。

「それで話というのは?」

切り出した俺を同時に二対の視線が射抜く(一方は見えてないけど)。

そして、次に口を開いたのはφ。

「彼女の名は【ゲルニカ】」

顔を彼女へと傾け、俺は頷く。

「彼女は”完全体”となった夢魔・・・【ガウディ】とでも名付けましょうか」

言葉と同時にゲルニカが肩を揺らす。

「そのガウディに一度夢を完食されました」

ガウディ、もっとも有名なのは”サグラダ・ファミリア贖罪聖堂”だろうか、緻密で美しい装飾が施された建築物は、まだ完成していない。

バルセロナを象徴する存在で、今も尚建築が続けられている(その資金は寄付と入場料によって賄われている)。

完成すると18本の塔が聳える筈なのだが、まだ12本しか完成していない。

まぁ、もっとも有名なのがサグラダ・ファミリアというだけで”カサ・ミラ”や”コロニア・グエル教会堂”を作ったもの彼だ。

成長し続ける自然のなりわいを建築手法に用い、自然と人間とが一体となれる。

そんな空間を作り続けた建築界の天才だ。

その大人物の名をφが名付けたのだから、余程危険な夢魔なのだろう。

「私はガウディを殺したいと思います。ユッキーにはその夢魔が潜む芸術品を盗んでもらい、あの場所へと持って来て頂きたいのです」

「なるほど、OKです」

「居場所は既に分かっていますので後ほど伝えます」

「はい」

「報酬はどうしましょう?」

「”アレ”で」

「分かりました、”アレ”ですね」

知り合う者にしか分からない単語で了解を交わすと、俺はゲルニカを見た。

φも同じようにゲルニカを見ている。

先ほど一瞬だが垣間見たφの瞳。

怒りに染まった瞳が彼女に見たものは何だったのだろう。

今のφからは殺気だとか威圧感だとか、そんな重々しいオーラは感じられない。

ただ何故か楽しそうに笑みを浮かべながら―――


もう冷めてしまった湯飲みの口を撫でながら、φはそう呟いた











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