20×5年7月20日―――――研究対象S−0002【ゲルニカ】
EU第一特別研究所から対象が脱走との報告。
研究所を破壊し、逃走。
ゲルニカは現在、日本へと向かっている模様。
研究対象S−0008【団長】、研究対象S−0007【ガウディ】、研究対象S−0006【天下】の3名をS−0002の回収に向かわせる。
AM9:00、始動。
空が白み、それは朝を告げようとしているのだとワタシは感覚的に悟った。
それを知ったからといって大して今の状況に変化をもたらす事は無い。
日本の首都、東京。
大小様々な建物が混在する都心部から離れた閑静な住宅街。
人通りは全く無く、あったとしてもワタシ達を見て警察へ通報しようなどとは思わないだろう。
常軌を逸した光景に立ち尽くすのみだ。
聴覚が後方からの追跡者の足音を掴む。
500m後方の民家の屋根、そこに彼はいた。
彼・・・・・・いや、彼らは日本の意向など全く気にせず、この国を戦場へと変貌させようとしている。
それがワタシ――――【ゲルニカ】と追跡者【ガウディ】なら可能なのだ。
性別は男性。
目端が鷹のように鋭く、三白眼がさらに凶相を引き立てている。
普段は冷静を装いながらも戦闘時には狂ったように刃を振るう姿は感情をなくしたワタシでも戦慄を覚えるほどだ。
恐らく今回、ガウディには脱走したワタシの殺害許可が出ている筈だ。
過程がどうであれ結果がよければ全てよし、の研究所の意向には舌を巻く。
研究所が”あの3人”を送り込んできているならばワタシが逃げ切ることは不可能に近い。
そうなれば直接対峙を余儀無くされ、死ぬ。
だから死なぬことを祈って逃げ続ける。
彼だけが持つことを許され、彼だけのために作られた兵器。
【Concealed Technology】を用いたハールバード(斧状の刃と鉤状の突起部、槍状の頂部がある槍)【サグラダファミリア 】だけが唯一ワタシを死に至らしめることができる。
サグラダファミリアは自身を中心に半径3mの空間を白と黒の絵の具が混ざり合うように、肉体と精神を混同させる力を持っている。
”痛み”は肉体を傷つけ神経を通り脳へと情報が伝わり役目を終えるが、これにより痛みが精神にも傷を負わせることになる。
肉体的な”不死身”を持つワタシにとってそれは天敵となり得る物であった。
あの槍に貫かれた者は死ななくとも狂い、心を破壊される。
彼と戦い、廃人とならなかった数の方が少ない。
しかし、その数の中に”夢魔に夢を喰われ生き延びた人間”は1人もいない。
もしかすると死なないかもしれない、でも死ぬかもしれない。
死ぬ可能性があるのならば研究所は迷わず賭けるだろうし、今これが彼らの応じた結果だ。
鏡というものは不思議だと思う。
その世界には自分と同じ、しかし全く異なった人間が存在する。
と、いうのが世界中の人々が鏡における見解であろう。
だが、ワタシは鏡の中のもう1人の自分を見たことが無い。
決して鏡を見たことが無いのではない。
”ワタシの姿は鏡に映らない”のだ。
魂が現世ギリギリのところで繋ぎ止められた状態、と研究所の人間は言っていた。
だからなのか、”完食後”、カメラやビデオなどの記憶媒介にワタシの記録は残っていない。
ワタシは自分の姿形を幼き頃撮った写真でしか見たことが無い。
今も胸元で光るロケットに納まる一枚の写真。
背は今より随分小さい。
はにかんだ表情で映る少女はピースサインをレンズに向けている。
引き込まれそうになるほど深い碧眼の双眸。
艶やかなブロンドの髪。
透き抜けるように白い肌を飾る筈の同色のワンピースが劣って見えるほどの美しさ。
写真の少女には何者かによって形付けられたかのような美しさがあった。
自己陶酔というならばそうなのかもしれない。
今はできない明るい表情の少女を愛している。
ワタシは”あの頃の少女”を愛している。
夢魔に夢を喰われ、ワタシは感情を失った。
しかし、心は生きている。
ワタシの夢を食らった夢魔を倒し、あの笑顔を取り戻す。
夢ではない、リアルな野望。
いつか、あの頃の少女に「どうだ綺麗になっただろう?」と胸を反らして言ってやる。
だから死ぬわけにはいかないのだ。
「――――っ!」
肩口に”痛み”が走る。
それがサグラダファミリアによって与えられた”痛み”だと気付く。
しかし、肉体的なダメージ以外変化は無い。
異常体質が精神へと痛みが伝わるスピードを遅めているのか、全く伝わらないのか、分からないが。
だが、それがワタシに残された希望でもある。
そして、とうとう詰まった2人の間合い。
互いに必殺ではない、サグラダファミリアを手にしたガウディが圧倒的に有理である。
全長2m強はある聖なる残虐槍を構え、ガウディは殺気を迸らせる。
「S−0002【ゲルニカ】、排除させていただく」
鈴虫の鳴くような甲高い声音、されどそれに安らぎを得ることはできない。
与えるのは一方的に死を押し付ける身勝手さと不快感だけである。
しかし、それが表情に出ることは無い。
無表情と無言で、ワタシは戦闘を促す。
元々肉弾戦向きではないワタシの力は、むしろ戦闘回避のために備えられたといってもいい。
【恐怖】がワタシの力。
仕組み云々を語るより、単純明快に言った方がいいだろう。
先にも言ったとおり【ゲルニカ】によりワタシは”不死身”の身体となっている。
傷を負っても細胞が無限自動分裂し、傷を瞬時に修復してしまうのだ。
肩の傷もすでに修復され、血を拭えば綺麗な肌が顔を出しているはずだ。
この力があるからこそ研究所はガウディを寄越し、今目の前にいる。
そして、次の瞬間。
彼の肩がピクリと奮えたかと思うと、サグラダファミリアの矛先が、反射で避けた、先程までワタシの顔があったところで止まっていた。
それが戦闘開始の合図となる。
ガウディが槍の長さを無視した急接近、しかし、近距離で薙がれでもすれば斧部分で胴体が割られかねない。
それでも死ぬことは無いが、もしサグラダファミリアの能力が生きているとすれば廃人を余儀無くされる。
真上へ跳躍すると、案の定、サグラダファミリアが足元を通過し、振り切られる。
身体能力が少しばかり他者より優れているのみ、ワタシには武器は無い。
【ゲルニカ】はあくまで防衛専門だ。
着地後、ワタシは後ろに飛び退り、構えを取る。
!!?
ガウディの姿が消えた。
刹那、空気を裂く音が聴覚を打つ。
「上」
口に出さなければ動けなかったであろう。
降るように槍と共に落ちるガウディ、地面は割れ、その打撃の強靭さを物語る。
そして彼は少しばかり腕を引いたかと思うと、サグラダファミリアを投げた。
槍とは中近距離だけではなく、こういう使い方もできる、実践するとは思えなかったが、事実彼は実行した。
刺突と比べ格段に遅い槍を余裕で回避、反撃に打って出ようとした瞬間、再び彼の姿が消えた。
一瞬、真上を烏の影が通過する。
同時にワタシは振り返った。
そこには一度手放した槍を空中で掴み、すでに刺突の動作に入ったガウディ。
彼は全力で投げてはいなかった、ワタシの油断を誘うための餌だったのだ。
「さらば」
彼は短く言い放ち、槍が大気を翔け、ワタシの胸を貫く・・・。
貫いたと思った。
「こんな朝っぱらから」
寸前で、第三者の右手がワタシの胸と槍の間に割って入った。
頂はワタシの身に届いていないようだ。
今はそれを確認するだけで精一杯で、小鳥の囀りの様に清らかで美しい声音の主の顔を窺うこともできない。
視線は先程までワタシの死を奪おうとしていたガウディへとしか向いていない。
子供に呼びかけるように優しい音色の主は続けて言う。
「女の子いじめて楽しいかい?」
ごぅ、と一陣の風が全身を吹き抜ける。
それが彼の凄まじい殺気だと気付いたのは”事が済んだ”時だった。
「何も――――」
ガウディの問いは問いとして完遂される前に打ち消された。
殺気ではなく、”風”に。
”風のような拳の応酬”に。
右手は矛を掴み、左手は宙を彷徨っているだけに見えた。
しかし違う、左手はゆっくりとスローモーションでガウディの鼻っ柱に拳をぶつけていた。
スロー再生のように見えている左腕は高速でブレている。
神速・・・・・・いや、人間の持つ言葉の範疇に収まる速さではない。
何百、いや何千、何億もの拳がガウディに叩き込まれている。
とにかく目前で嬲られる男は刺突の構えのまま昏倒しているのだ。
「分かったかな? レディには優しくしなくちゃね?」
優しげな声音に混ざる死の宣告。
言い終わると同時に死神は拳を引く、ガウディがそのままの体勢で仰向けに倒れた。
ワタシはさっき「ワタシとガウディならこの国を戦場に変えることができる」と言ったかもしれない。
そんな筈無かった。
日本には、こんな化け物が眠気眼で散歩しているのが普通なのだから。
日本はすでに戦場だ。
不思議な男性だ。
顔の半分は下ろした髪で窺えない。
口元が笑っているので”善”の感情であることは確かだ。
日本は夏だと言うのに厚手の長袖を着て平然としている、明け方だから?
そして・・・。
「大丈夫? ケガはないですか?」
優しい声音は聞くもの全てを癒してくれるフルートの音色。
彼の温厚そうな印象とピッタリ一致する、そんな声。
「大丈夫です・・・右手は大丈夫ですか?」
「えぇ、こんなの掠り傷ですよ」
ガウディが倒れると同時に引き抜かれた槍の傷口からは血が溢れ出ている。
それでもヒラヒラと宙を舞う右手、かなり説得力に欠ける。
「さて・・・・・・」
すると彼は口元の笑みを絶やし、倒れたガウディを一瞥し、ワタシと目を合わせた。
いや、目は隠れているのだから合う筈は無いのだろうけど・・・何となく、合った。
「ほんの少し散歩のお相手願えますか? えぇっと・・・」
「ゲルニカ」
「ゲルニカさんですか、それで、どうでしょう?」
ワタシは言葉を発する事無く、頷く。
「では行きましょうか――――っと、申し遅れました」
踏み出した足を戻し、彼は微笑みながら言った。
「私の名前【φ】っていいます。よろしく」
この出会いが物語のプロローグ。
この日、ワタシは野望への階段を一歩登る事ができた。
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