平日だというのに美術館を訪れる客は連日増えているという。
しかし、彼らは決して美術品そのものを目当てにやってくるわけではない。
美術品を狙うレンレイを目当てにやってくる客がなんと全体の3割を占めていた。
今回、ダナエを「いつ」盗みに来るのか、俺はそれを伝えていない。
要するに「適当に盗みに来るから、その時はヨロシク」ということだ。
いつ来るとも分からないレンレイを待つ観光客にとって美術館という場所は格好の暇つぶし場所・・・・・・というわけでもなく、広大な敷地を誇る館外をうろつくばかりである。
しかし、残りの7割ほどは真っ当に鑑賞目的で訪れているため、館内も賑わっている。
館員達はこの現状をどうとっていいのか曖昧らしく、ただただ展示されている美術品に関して「問われれば答える」の動作を繰り返しているのである。
そんな中、客では無い者もいる。
紺の制服、腰に警棒をぶら下げたまさに警官だ。
彼らは入り口を検問し、周辺の警戒を強めているがその身に慎重さは見受けられない。
昼前の気だるい時間も作用しているのであろう、心なしか職務に就く警官達は眠そうに見える。
それは集中力の欠如を手伝い、今や彼らは職務を忘れた放浪人に近い。
そして、その現状を見た獏羅は落胆しているようだ。
「何なのこの緩い警戒態勢は・・・・・・これじゃアイツに盗んでくれって言ってるもんじゃない」
酒池と化したバスを俺と2人して降り、俺達は勝手(この勝手が許されないならバスの連中は何なの?―――by獏羅)に美術館へ赴いていた。
ちなみにバスの運転手(年齢不詳)は車内で夏の甲子園大会予選の中継をラジオで聞いて白熱中だ(どうやら我らが高校は早くもその姿を消したらしい)
車内で沈黙している生徒達もそうだが、俺にとってはこの運転手の方が一枚上手に思えてくる。アルコールの臭いがしても、何の不平不満なく走るのだから。
まぁ、俺達は美術館内に入る。
美術館の雰囲気は、やはりいい。
見回すとそこには触れたくとも触れることができない芸術達。
それらは互いの美しさを誇り合い、頂の無い、ましてや勝ち負けの無い戦いを繰り広げている。
芸術の前には人は無力である。
ただそこに干渉できるとすれば人は、若干の優越を与えるため彼らの前に立たされた木偶のようなものだ。
人によって形作られた芸術は、人を超え、神のような存在となり人に変化をもたらす。
表現主義の代表的画家であるココシュカはある画家の絵画を見ることで人生をやり直す勇気を与えられたという。
人生を生かすも殺すも理由となる何かが必要であり、それは共通して変化から始まる。
「(昔の人間は繊細だね、変化に敏感だ)」
デカダンスな時代とともに生きた画家ブーシェ、フランスの画家ルノワールに初めて感動を与えたという【ディアナの水浴】を眺める。
川で水浴びする2人の女性を描いた享楽と官能の時代に生きるブーシェの代表的な絵画だ。
右隣。
後期印象派、画家としても名高いゴーギャンから野獣と呼ばれたドラクロワの【ドン・ジュアンの難破】。
怪物のように息づく船の上で、人々は恐怖に怯え震えている、人の負の感情全てを表した作品。
華やかさと荒々しさという印象の2つの絵、それは対極に近い関係ながらも元々が同じもののようにお互いの存在を許しあっていた。
「美しい・・・・・・」
「うむ、そうじゃな」
突然の同意に俺は初めてそこに他者の存在を知る。
アゴヒゲを撫でながら口元を歪める初老の男。
この男、気配が無かった。
いつの間に近付いたんだ?
見惚れている間に?
いや、ありえない。
男は俺の顔を覗き込むように見ながら微笑む。
優しい、しかし怖い。
その顔に貼り付けられた微笑は無機質で、それが彼の真の表情だったとしても俺には信じられないかもしれない。
俺は激しく上下する心臓の鼓動を抑えようとする。
しかし意識すればするほど動悸は激しくなり、後ずさりはしないものの思わず息を呑んでしまう。
そして俺は男の容貌を初めてまともに確認した。
鬼のような男だ。
眼光の鋭さ、体格は昔話に登場するような鬼、そのもの。
アゴヒゲは念入りに手入れされているようで、そこだけが輝いて見えるほどだ。
視線を下ろすと、彼は警官服を纏っていた。
その上からでも分かる屈強で鍛え抜かれた肉体は、まさに堅牢。
”同じ世界”に身を置く俺には、分かる。
――――この男、まさに”鬼神”
俺は先程、芸術とは神のような存在だと表したかもしれない。
しかし、男の眼は神をも射殺す眼力を放ちながら異世界を見ていた。
時空を超えた、異次元の回廊を。
恐らくこの男に絵画など見えていない。
絵を描く画家の意思と意志、困難と挫折、絵に刻み込んだ数々の想い。
見えているのは、過去の場景。
男はそれを見据えて尚、問う。
「この2つの絵、誰が描いたのかね?」
「右の絵がドラクロワというフランスの画家で、左の絵がブーシェ・・・彼もフランスの画家です」
「ふむ・・・・・・・・・・・・見たところ学生だというのに博識、大したものだ」
「お互い様です」
俺は笑いかける。
「そうかもしれんな」
鬼神は豪快に笑いながら、気配を断ち、俺の背後に現われる。
「では・・・・・・また会おう、レンレイくん」
アゴヒゲを撫でながら、男は不適に笑い、その場を去る。
ゆっくりとした動作にも隙はない。
その背中がフロアの角に消えたと同時に、俺はベタつく手の平で長い前髪を掻き上げる。
まったくもって・・・。
「くえない男だ、警視庁長官・国衛特務隊隊長【一ノ太刀 鬼丸】」
誰に言うまでもなく俺は解説口調でそう言った。
これが、ダナエ・・・。
私――――【獏羅 香織】は圧倒される。
何となく見た、芸術雑誌。
その中のダナエというものは、注意しなければ流し見てしまいそうなほどチッポケな存在だった。
しかし、今目の前にあるこの絵は違う。
人間に用意された言語では言い表せない・・・一番近いものがあるとすれば、それは圧迫感。
完全に私はこの絵に呑まれてしまった。
芸術という分野で感動することのない私にとって、これは初めての体験であり・・・私がレンレイと戦う度に感じる感覚であると”知らされた”。
まるで無駄の無い芸術的な演舞。
敵わないとは知りながらも一秒でも長く触れていたい、その感覚に身を浸していたい。
そう願うたび、彼は期待を裏切ってくれない。
この絵も同じだ。
雑誌と実視。
嘲りと圧倒。
私は油断した挙句、この絵の虜となってしまったようだ。
純白のウェディングドレスを着ることが幼き頃からの夢と語る者もいるように、この絵の場景、情景にいる自分を思い描くと正に夢のようだと感じられた。
ゆっくりと瞳を閉じる。
私の心は今、解き放たれたように晴れやかで、静かである。
私に足りなかったものはこれだったのかもしれない。
虜となった私はそう思う。
執着。
いつだって私はレンレイが獲物を手にした瞬間、諦めていた。
もうムリだ、私ではどうにもならない、と。
初めて彼と対峙した時、獲物を持って去る彼の背中を私は全力で追いかけた。
あの頃のひたむきを私は忘れていたのだ。
「今の私に・・・・・・何ができる」
結局のところ、酔いに酔った生徒達をそのまま学校へ連れ帰るわけにも行かず、それぞれの地区で解散ということになった。
社会学習は実質、俺――――【神谷 幸村】と獏羅の2人だけで行ったようなものだ。
翌日、感想文を提出しなければならないのだが、他の生徒達は焦ることもなく、ただ夢の中である。
椿山荘方面で降りる生徒はいない、俺は黙ってバスを降りる。
一ツ橋公園西口。
西口を出てその先は一本道、住宅街が建ち並んでいる。
距離にして西口から200mほど歩いたところに椿山荘がある。
俺はその道をゆっくりと歩くのが好きだ。
公園で遊んでいた子供達が空腹と家から流れ漂うシチューの匂いに誘われて走る午後5時。
どの家にも温かい光が灯り、彼らの帰りを待っている。
その中を俺は家と家の隙間から覗く夕日を眺めながら物思いと徒歩だけに意識を向ける。
耽る、という行動は俺に一抹の安息を与える。
それだけが俺に許された唯一の感覚といえるからだ。
夢中になっている、という感覚は俺がまだ自分が人間であると認知できる方法。
これが失われれば・・・・・・俺は人間ではなくなる、あの頃のように。
だから俺は夢中で歩き、夢中で考える。
「今日の晩御飯、何にしよう」
そんなことを考えられるようになったのは、ここ最近である。
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