【レンブラント】が描いた絵の中に【ダナエ】がある。
そのダナエが急遽日本の美術館で展示されることになった。
エルミタージュ美術館に飾られていたダナエは1630年頃描かれた作品の中で、最も優れた作品であり、それは多くの人が認めている。
これを機にパリのルーヴル・オルセーや、ニューヨークのメトロポリタンなどからの作品も数多く展示されるそうで芸術に関心がある者としては一度行っておきたい。
この出展を時と同じくして”平成の大泥棒”ことレンレイがダナエを盗む、と犯行予告を送ってきた。
その事実は世間を騒がせ、それ以上に日本警察を騒がせた。
「日本警察は出展当日から出展最終日の7日後まで美術館の周囲を警備するようで、それには自衛隊も……」
と、TVの中でニュースキャスターも言っている通り自衛隊をも巻き込む事件となりつつあった。
朝。
椿山荘の一室で朝餉をノンストップで平らげていく俺――――【神谷 幸村】はTVを見ながら表情を変えずに笑った。
微笑、俺が”今”できる最大の表情表現。
俺という人間性を知り、口元の微小な変化に気付くことができるだけの注意力があればこそ知ることができることだ。
すると、向かいに座って朝餉を共にする隣人、冠城家の長女薫さんは魚の小骨に苦戦しながらもその表情の変化に気付くことができたのだろう。
小骨掃除を放棄し、眩しい笑顔で、さも自分の事のように彼女は言った
「何か良いことあったの?」
豆腐とワカメの味噌汁を一気飲み、ご飯を口に頬張る姿は遠慮がない。
彼女は俺を男としてみていない、そしてそれは逆も言える。
俺達はあくまで隣人で性別の境界を越えた親しき友なのだ。
「あったわけではありません、あるんです」
「どんなこと?」
「秘密です」
「私にも?」
と、大きな瞳を潤ませ問うてくるが、頬に米粒のついたままではイマイチ効力が薄い。
それに俺にお色気戦法を選択したところで意味の無いこと、今の俺はあくまで冷徹であり冷静なのだ。
しかしながら、それらの要素を抜きにして俺は薫さんに弱い。
学校では天下無敵の戦闘力を誇る俺の唯一の弱点と言っても良い。
「そろそろ夏休みですからね」
俺は私立の高校に通っている。
と言っても進学率、就職率共に大きな差があるわけではない。
”基本的な部分”において普通の学校だ。
「学生の本分は遊びだからね。見るからに遊びなさそうだけど」
「そんなことないですよ。確かに以前はそうだったかもしれませんが……今年は薫さんもいますし」
「おっ、嬉しいこと言うね♪ 東京案内でもしようか?」
「はい。お願いします」
”また1つ”楽しみが増えた。
心の中で呟くと食器をテーブルに残して立ち上がる。
食器の処理は薫さんの仕事となっている。
一日ゴロゴロしている彼女の唯一の仕事だ。
時計を確認する、8時を回っていた。
一ツ橋公園を抜けるとすぐにある学校へは走れば5分の距離だ(本気で走れば別だが)。
8時30分までに登校すれば遅刻は免れるという規則だからまだまだ余裕のある時間だ。
だが、俺はすでに制服に着替え、カバンを持って玄関へと歩く。
薫はその姿を少し寂しそうな瞳で見つめている。
リビングを出る瞬間、俺は薫さんを振り返る。
「……では、後を頼みますね?」
その言葉を聞い彼女の表情は反転する。
”誰かに必要とされる確かな瞬間”。
それが今の彼女には必要だという事を俺は知っていた。
「ハイ、わっかりましたぁ♪」
リビングを出て少し長い廊下を歩き、玄関の扉を開け、閉める。
けたたましい食器の破砕音が彼の不安を煽り、しかし彼女らしさという一言で片付ける、心広しかな俺。
「行ってきます」
その言葉も、日常の音達によって掻き消される。
青春を謳歌する蝉の歌声。
夏が眼を覚まして日は浅くない。
――――ベキ
今日も爽快とは言いがたい鈍い音と共に教室の後ろ扉が粉砕する。
「押してだめなら引いてみろ、とはよく言ったものです」
「破壊してから言うなよ!」
鋭いツッコミが他方から飛び交う中、気にする素振りも見せずに自分の席へ向かう俺、もう少し世間ってやつを気にすることを覚えようかな。
すでにもう一方の扉を外して入場していた獏羅は、そんな俺の姿を遠い目で見ている。
そして扉を見て「今日もか」と溜息をつく担任が教室へやってきた。
と、同時に教室に散らばっていた生徒達が席についていく。
生徒全員が座り終えたとき、担任教師は言った。
「今日は国立新美術館へ見学の日だったな。HR終了後、校門前集合。では、連絡―――――」
私立一ツ橋大付属高校には毎月一度”社会学習”として色々な施設を見学することになっている。
この取り組みは創立時から続いており、これを楽しみにしている者していない者、心境も色々。
あまり美術に関心のない若者達にとって今回の学習が実りある物と成り得るのか。
そんな事など気にせず驀進し続ける学校教育に何ら異論を唱えることもなく、社会学習は進行するのである。
エンジンを吹かし、バスは車内の喧騒に耐え忍びながらゆっくりと動き始める。
鼻歌交じりに上機嫌な化け物を乗せて。
車内宴会を決め込む生徒達に押され酒ビンを一口飲んだだけで酔い潰れ、後々説教を受けることになるであろう担任を放ってバスは高速へ乗る。
朝ということもあって渋滞もなく快調なスピードで走っている。
担任という枷がなくなってか、バスジャックの一団と化した生徒達はこのまま東京タワーか国会議事堂に突っ込む、もしくは爆破しかねない勢いで飲み、潰れていく未成年達。
一番前の座席で隣同士の神谷と獏羅は当然の如く一滴も飲まず、静かに時の流れの中に身を浸していた。
私――――【獏羅 香織】は思う。
「(今回の事件………長官が指揮を取るって言ってたけど…ホントに大丈夫なのかな)」
今向かっている美術館はすでに警察と自衛隊による厳戒態勢が敷かれている。
ダナエだけではなく全ての美術品が防弾ガラス張りのショーケースに、武装警官(自衛隊は主に外周)は館内に配置されている。
蟻の通る隙間も…とはこのことだ。
と、長官を除く警官及び自衛隊達は思っているらしい。
「(”上”はレンレイを甘く見過ぎている)」
私は”銀時計”の封印から開放された【夢魔】と呼ばれる怪物を思い出す。
「(盗みの数だけ校舎の半分消し飛ばすような化け物倒してきたんだ、武装しているとはいえ普通の警官が倒せるわけないじゃない)」
赤光の砲弾、サッカーボール程度の大きさながらも5階建ての校舎半分を削る破壊力のオーパーツを持つ夢魔。
「(そういえば…次の日には校舎、元通りになってたっけ)」
その日のことが幻であったかのように、当たり前の風景は当たり前のままで君臨していた。
異質、異変、隠蔽。
多くの否定的単語が頭を駆け巡る中、私はあの日から現実を直視できないでいた。
この異常さは尋常ではない。
そう頭に刷り込まれた。
「(実際のところ。誰が夢魔の餌食となり、なりつつあり、なっていないのか、それは分からない。夢魔って殺人罪に適用されるのかな? いや、なるはずが無い。人間が作り出した罪の範疇になんて収まらないモノなのだから)」
自分が人間である以上、と私は自らの力の無さに悔やむ。
そして隣で眠る男を見る。
「(そんなヤツにアンタなら勝てるのかな?)」
ぐっすりと眠るその顔に、人の気も知らないでと毒突きながら彼の長い髪を引っ張ってみる。
目覚めたら仕方ない、素直に謝ろうと思いながらも遠慮の無いイタズラにくぐもった声が唇の端から漏れる。
ニヤニヤ笑いながら、耳を引っ張ってやろうと手をかけたその時、彼の首元に黒い痣のような者を発見した。
「(痣?)」
彼が寝ていることをもう一度確認すると長い黒髪を横に流して注意深くそれを見る。
「(十字架・・・・・・・・・?)」
それは刻印、彼の心に刻まれた心象。
「(悲しい色・・・・・・)」
彼の滑らかで美しい黒髪とは対照的な赤黒く澱んだ十字の斑紋は彼女に悲愴感に近いものを与える。
すぐにでも眼を逸らしたい、そんな感情に苛まれる。
しかし、同時にそれを懐かしみ、既視感となって私の記憶に波紋を起こす。
ブラックボックスに入ったまま読み取られることのない封印された記憶。
開ける方法を忘れた”彼女”は、それに気付かぬまま箱を揺らし続ける。
開かない箱に苛立ちながらも”彼女”は十字架を見つめる。
「(いつ・・・・・・これを見たのだろう)」
しかし思い出そうとすればするほど、その箱は手元からするりするりと離れていく。
再び掴もうとしても伸ばした手は空を薙ぐばかりで触れもしない。
そのままその箱は、彼の意識の覚醒と共にその姿を消した。
「・・・・・・何やってるんですか?」
「えっと、悪戯を少々」
「・・・・・・・・・・・・結構なお手前で」
耳という部位は捻られると結構痛い。
私はよく叱られた時、耳を捻られたり引っ張られたりした。
ヒリヒリっていうか・・・ズキズキ。
そんな擬音が聞こえてきそうな程、赤くなった耳を押さえて彼は再び眠りに付く(ただ眼を瞑って痛みを堪えているようにも見える・・・ニヤ)。
時々、自分の力の存在を忘れてしまう時がある。
それが、いつも彼といる時だという事を私は気付いていない・・・気付いていないフリをしていた。
少し強く捻りすぎたかな? 呻く彼の横顔を眺めながら視界の片隅に映る十字を意識する。
あの感覚は何だったのだろう。
今は薄れた、謎めいた気配。
思い出そうとしても思い出せない封印された記憶。
その記憶が私にとってどういうものなのか、当然私には分からない。
だから私は気にしないことにした。
今は楽しもう、残り短い高校生活の一行事を。
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