東京都千代田区一ツ橋。
区立中学校と並立して建っている【私立一ツ橋大付属高校】は私立の割に勉学にもスポーツにも力を入れていない珍しい学校だ。
駅にも近く進学率も中々なので年々入学志願者も増えてきているが、それが理由で入学しようと思っていないというのは確かだ。
5階建ての棟が2つ、平行に並んだ造りの建物は紛れもなく私の通う高校と通っていた中学校だ。
通っている高校は私立でありながら普通の区立、都立の学校となんら変わりない。
私が所属する3−Aの教室。
中からは普通の学校と変色無い、賑やかな教室風景を想像させる要素が外まで溢れ出ていた。
扉に手を掛けると、ある疑問が彼女の脳裏を過ぎる。
そういえばコレ、押しだっけ?引きだっけ?
実際はその2択で選択されるべきでない問いなのだが今の私はそのまま扉を横に滑らせるところまで頭が回らないようだ。
「引きよね」
何故か確信じみた声音。
私――――【獏羅 香織】は何の躊躇も無く、引いた。
―――――ベキ
鈍い、鈍すぎる音が私の意識を覚醒させた。
筋肉はストレスによって思いの他硬直し、必要最大限の力が引力として加えられた扉は見事に外れた。
教室が一瞬で動揺と困惑に染まる、しかしそれも一瞬で元の賑わった教室へと戻る。
「おはよう、カオリ〜♪」
「オハヨ〜♪」
最早こんなことなど日常茶飯事であった。
私は自分で、”抜けて”いると確信している。
どうでもいい知識や道徳はこれでもかというぐらいのボキャブラリーが存在するのだが、日常生活に必要な”普通さ”が抜けていた。
私は幼い頃、祖父から【羅流舞闘総統術】を叩き込まれ今は免許皆伝、祖父を軽く凌ぐ使い手となった。
祖父子の私は礼儀作法や習い事の類(習字・硬筆・華道・茶道等)は完璧なのだが、何分常識を知らないで育ってしまった。
その為歪んでしまった性格の私を受け入れてくれるクラスメイトがいること事体が奇跡なぐらい。
そんな状況の中、私を支える2本の柱。
1本が私と同等の力を持ち今の生きがいとなっている”平成の大怪盗”こと【レンレイ】。
そして、もう一本、私と同じく”化け物”と呼ばれる者の存在だ。
―――――バキ
鈍いわけではない、爽快な音が再び教室をしんとさせる。
通常教室には前と後で2つの入り口が存在するものである。
私が外した扉は”前”のもので、今教室中の視線が集まっているのは”後”だ。
「押しドアだと思ったのですが…」
「何故っ!?」
外れたなどという生易しいものではない、扉は原型という言葉が存在するのが不思議に思えるぐらい粉々に砕けていた。
「………また教頭に怒られてしまう」
しゅんと項垂れながら扉の惨状を放棄し、窓際の一番後ろの席へ着くとカバンから学習道具一式を取り出して机に突っ込む。
教室中の視線はその一連の行動を追いながら誰一人として騒いだりしない、勿論扉の心配などする者など誰もいない。
その視線を知って知らずか、すでに扉のことなど忘れている”化け物”は微妙な微笑を浮かべる。
「どうしました?」
「いや、別に」
異口同音にそう言うと、まぁいつものことか、と再び教室に騒がしさが戻る。
「(押しただけで粉砕したのよ、何でみんな驚かないの?)」
感覚というのは必ずしも常に正常というわけではない。
特に味覚や温覚などは食べ物や場所によって正常さは失われる。
その変化があるからこそ人は料理をするし、木陰や陽だまりを求める。
それと同じで私達の破天荒な行動は彼らの異常に関する感覚を麻痺させていたのである。
空気感染のようにそれは広がり、私達が酸素無しで宇宙空間を浮遊していたとしても、それが当たり前だと知覚してしまうほど麻痺は侵攻している。
それもこれも元凶はこの”化け物”。
全てを見透かしたような深い漆黒の瞳と同色の髪。
無機質な表情で窓の外を見ている。
しかし鋭い双眸には何も映っていない、仮に映っているとすれば認識できるかどうかは別として空気中の窒素ぐらいだ。
制服に隠された健康的な小麦色の肌は彼に活発なイメージをプラスさせるが、彼は冷静沈着で大人び、活発というよりはインドアな雰囲気を漂わせている。
「(容姿には共通点があるんだけどねぇ)」
私の追うレンレイは冷静沈着とは掛け離れた…どちらかといえば猪突猛進の気がある。
その中に恐れを知らない、それが罠であろうと突っ込む無鉄砲さ、罠に引っかかっても動じず戦局を優位に持っていく大胆さと余裕、おどけた態度を見せながらも真意を探らせず逆に探ろうとする。
それは危ない橋を渡り数々の死線を潜り抜けてきた者だからできるプロだからできることである。
「(そんなこと”化け物”とは言え高校生ができるわけがない――――それに)」
私には彼がレンレイに匹敵する力を持っていたとしても、確実といえるほどレンレイではないことを裏付ける証拠があった。
―――――それじゃあね、綺麗なお姉さん♪
「(こんなこと、あの”化け物”が言える筈ないじゃない・・・)」
私の証拠はかなりの偏見が入っているが、この地球上全ての者が彼を見たとして、口説き文句に近い浮かれた言葉を吐く人間とは思えないだろう。
それほどまでに彼は”浮かれ”が似合わない男なのだ。
視線を”化け物”に向けると、彼はまだ窓の外を眺めている。
何が楽しいのだろうか、口元は僅かに笑みを帯びていた。
「…………言える筈ない、言える筈ないじゃん」
今更だが、自分が教室の入り口で立ち尽くしている事に気付く。
教卓に担任の姿は無く、やはり教室は賑わっていた。
私はいくら考えてもNOに至る推測を打ち消し、自分の席へと向かう。
視界から彼が失われ、私の思考から彼が消える。
その時、彼はその歪んだ唇を注意して見ても分からぬぐらい微小に動かす。
歌うように囁くその声は私の聴覚を刺激することはなかった。
「また会ったね、綺麗なお姉さん」
首都高速を背にして、一ツ橋公園をまっすぐ抜ければ駅。
公園を東口から出れば賑やかな街道、西口から出ればひっそりとした住宅地に繋がる。
4つの出入り口があるその公園はただ2つ3つ遊具があるだけの小さなものだが、住宅地に住む子供達の格好の遊び場となっていた。
何故、区(または都)はこんな公園を作ったのだろう。
不思議な公園だ。
俺――――【神谷 幸村】はいつもそう思いながらこの場所へと足を踏み入れる。
ゆっくりとした歩調で西口目指して歩いていると、小学生ぐらいの子供達がブランコやらジャングルジムやらを駆け回る姿が目に付く。
正確には”その先”が目に付いた。
公園の片隅にあるベンチに腰を下ろし、読書に没頭している男性。
俺の視線に気付いたのか伏せていた顔を大儀そうにもたげると長い髪の毛は彼の眼を覆い隠し、しかしその隙間から俺は目が合っている事を感じると、10m以上離れた距離で俺達は互いに言葉を交わした。
「やぁ、ユッキー」
「こんばんわ」
親しみが込められている2つの声音を子供達の元気な声が遮る。
しかしお互い何を言うかを知り尽くした仲だ、少なくとも彼は笑顔を表情として現していた。
俺は小さく口元を歪めるだけ。
「今日はいいんですか?」
俺は彼がここにいることを珍しく思っているらしく、彼もそれを問われることを予測していたかのように小さく頷く。
「”できた”からね。また後で伺わせてもらうよ」
「分かりました、それでは」
それだけ言うと視線を外し、再び読書に戻る。俺は西口へ歩みを戻す。
会話は単語を並べたような単調なものだったが、俺達にしか分からない単語の集まりは外面的なものより内面に多大な意味が込められている。
俺の歩調に比例して2人の距離は離れ、そして時違えども俺達は公園を中心に同じ道を行く。
住宅地の隅に【椿山荘】という小さなアパートがある。
鉄骨造・2階建て、部屋数は上下合わせて6部屋。
元々変な形の土地に建てたアパートで、部屋の間取りはバラバラ。
1LDKの部屋があれば4LDKの部屋もある。
俺はその椿山荘の1階、4LDKと3LDKの部屋に挟まれた真ん中に住んでいる。
間取りは2LDKと中々の広さを誇るが珍妙な置物(旅行の際趣味で購入した物)が所狭しと置かれているため、2LDKは名ばかりと言っても過言ではない。
「ただいま」
鍵を開け、扉を引き開けて帰宅を告げる。
玄関には脱ぎ散らかされた靴が散乱し、それを一つ一つ並べて俺も靴を脱いだ。
靴箱の隣に底知れぬ威圧感を放ちながら鎮座する狸の置物(愛らしい笑顔を浮かべながら首から人間の目を連ねた首飾りをつけているという異様な逸品)の頭を一撫でするとリビングに向かう。
短い廊下を突き当たればリビング、部屋を別つ扉を押す、そこは。
酒やらツマミやらをぶちまけられた宴会場と化していた。
「おっかえりぃユッキィ〜〜〜♪」
「ただいま、薫さん」
俺が【薫】と呼ぶ、ショートボブの野性的な雰囲気を持った女性はブカブカのTシャツと下着だけのほぼ半裸状態で缶に残ったビールを飲み干すと、危なげに立ち上がり、冷蔵庫から新しいビールを取り出す。
俺はその光景を見慣れていたので「ちょっと騒がしい」程度に思っていたのだが、実際は100門の大砲を一斉に発射したようなドンチャン騒ぎである。
彼女は俺の部屋の左隣、椿山荘最大の広さを有する4LDKに住まう【冠城】家の長女だ。
薫は今で言う”ニート”で、高校を中退した後アルバイトもせず、一緒に遊ぶ友達もいないようで毎日実りの無い日々を過ごしていた。
「お邪魔してます、神谷さん」
ペコリと頭を下げる若い青年に俺は薄く笑いかけると制服を脱ぎハンガーにかける。
辺りにはスナック類のカスが散乱し、ベタベタして座りにくいが、これも「いつものことか」と自身を納得させると青年の隣に腰を下ろした。
「スイマセン、姉貴が」
「僕はいいんですよ、亮くん。賑やかなのは嫌いじゃありませんし……それに」
冠城家の長男、区立大学に通う【亮】は真面目で誠実な、今時珍しい自分に嘘がつけないタイプである。
俺はこの【椿山荘】で一人暮らしを始めて1年になる(それまでは実家―――両親は幼い頃他界―――から通っていたが、交通の便を優先し引越し)。
彼女には世話焼きなところ(亮も最近まで知らなかった)があるらしく、入居初日俺の部屋に無理やり押し入り、荷物整理を手伝ってもらったほどだ。
高校中退後、亮が見る限り初めての他人との”自分からの接触”に何かを感じた彼は姉のためにも「友達になってほしい」と俺に頭を下げた。
他人との関わりを嫌う現代社会で見ず知らずの人間に「友達になってくれ」と言われれば警戒するところだが、事情を察した俺はすんなりと首を縦に振る。
この時から合鍵を託された薫は、無断で部屋に入り酒を飲むことを許可され、亮はそれに呆気に取られているようだった。
しかし、こうして入り浸る内に俺も初めての土地で一人暮らしすることに不安を感じていたのだろうと思うようになり、亮もそれを表面には出さないながらも知覚したようだ。
「それに、薫さんは友達ですから」
遠い目でとうとう二桁後半の缶を制覇した薫を見る、その眼差しを亮も追う。
「「さすがに飲みすぎ?」」
ハモった同じ意見に苦笑しながら、俺は亮から差し出されたポテトチップス(うす塩)の袋に手を突っ込み1枚取ると口に運ぶ。
その間、薫はそこが自分の土地であるかのように冷蔵庫の前に座ったまま今度はビンを飲み干していく。
「薫さん、野菜庫の方にもありますからね」
「あ〜〜いよ♪」
顔を真っ赤にして返事をする薫の手はすでに野菜庫の中を漁っている。
「薫、いい加減にしないと幸村くんも困ってるぞ?」
「いえ……ハシさん。僕は別に…」
「幸村くんがそんな態度だから薫も甘えるんだ、ビシッと言ったれ。ビシッっと!」
俺と亮の正面で熱弁を奮う頬を真っ赤に染めた中年男性【ハシさん】こと【橋谷(ハシヤ)】は冠城家の表向きの大黒柱だ。
騒ぐことが大好きな彼もお隣さんとはいえ他人の家で、しかも家主の留守中に騒ぐ気にはなれなかったらしく缶ビールをバカ飲みする薫を止めてはみるものの逆に飲まされ今は半分酔い潰れている。
「俺達が言っても聞かないけど、幸村さんが言えば聞くよ、姉貴」
「……このまま冷蔵庫を開け閉めされれば電気代もバカにはなりませんしね」
俺は立ち上がると薫の赤ワインに手を掛けようとしていた手を掴んで止めた。
「それ以上飲むと胃壊しますよ、この程度にした方が……」
「ヤァダ、まだ飲むぅ」
「それならせめて何かといっしょに飲んでください。本当に胃壊しますから」
缶を2桁後半飲んだ時点で彼女の胃袋が常人とは全く異なった物質でできているのは知れたことだが。
「う〜〜ん仕方ないなぁ……」
薫さんは面倒くさそうにしながらも立ち上がり、残った冠城家2人はオオッと歓声を上げる。
彼女が壁となり2人の視界から消えた一瞬、俺は閃光の一撃を彼女の首筋に撃ち込む。
上体が揺れ、前のめりに倒れそうになるところを俺は受け止めると亮に告げた。
「・・・・・・眠っちゃったみたいです」
虎使いが虎の扱いに慣れているように、現世の”化け物”は酒豪の扱いに慣れていた・・・というより慣らされた。
やろうと思えば俺なら2人と話していた位置から冷蔵庫前にいる薫さん(テーブルを跨いだ先)を気絶させることもできたが、それをしなかったのはどれだけ酒を飲み居座られても一向に構わないからだ。
帰りに鍵だけ閉めてくれれば泥棒にも入られないし(というのは表向きの理由で、睡眠中足音に”慎重さ”を感じれば意識を覚醒させることも可能)、ゴミは処分できる。
俺自身、彼女が楽しければ特に問題は思っていない。
それが友達だから。
歪んでいるのかいないのか、特殊な環境と力を持った中で育った俺には分からない。
「さて…掃除、お手伝い願えますか?」
亮は「もちろんだ」と言わんばかりに首を縦に振る。
橋谷は都合良く眠っていた。
「………やりましょうか」
掃除開始が19時を少し回ったところ、終わった頃には皆が寝静まる時間となっていた。
数日後、例の美術館に【レンレイ】から再び犯行を予告する文章が送られる。
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