躊躇いなどなかった。

躊躇えば、捕まってしまう。

捕まれば、あの闇の奥底に沈められる。

闇の奥底に、光など微塵も無い。

影も映し出されない人間など存在しないのと同じこと。

光は今、手の中にある。

手の中には元々闇もあったのだけれど。







俺――――【神谷 幸村】の目を覚まさせたのが寝ぼけた薫さんの踵が額に急速落下したからだと知ったのは洗面台の前に立った時だ。

鏡の自分は赤くなっている額を撫でながら歯を磨いている、きっと俺も同じことをしているのだろう。

歯磨き粉の鼻に通るハーブの匂いはそんな当たり前なことを理解させてはくれるのだが、同時に喉の奥から迫る嘔吐感と脳を劈くような頭痛をも思い出させてしまったようだ。

「宴会したんだったな・・・夏風邪完治の」

夏風邪で寝込んでいた俺の回復祝いやら、屋根上からの来訪者の歓迎会やら、あらゆる祝い事をまとめて開催された宴会は”薫さん絶好調デー”と重なり、飲み物(主にアルコール)の空き缶だけで部屋の半分が埋まってしまうというダイナミックかつ大規模なものとなった。

φファイさんも珍しくはしゃぎ疲れて爆睡しているくらいなのだから、過去幾度となく行ってきた宴会だが、今回は稀に見る激しさだったといえる。

鏡に映る自分の表情は若干やつれているようにも見える、疲れがまだ抜けていないようだ。

二度寝しようにもリビングと寝室は地獄絵と化しているため眠れるスペースはベランダか玄関ぐらいなものだ。

俺は蛇口を捻って歯ブラシを洗うと続いて口に水を含み、濯いで、吐く。

さて、シャワーでも浴びるか、酒臭くて堪らん。

「あのぉ―――――」

背後からの声。

俺は痛む頭を押さえて身を翻した。

「おはよう、アヤメちゃん」

「エ、ア、ハイ、オハヨウゴザイマス」

この少し躊躇いがちに前で指を絡ませて立つ少女は【大村 アヤメ】。

俺達が初めて出会ったのは2日前。

今週の頭に上京してきたらしく、今は俺の住むアパート【椿山荘】の住人の1人だ。

ちなみに部屋は1階である俺の部屋の真上にあり・・・まぁ、色々あって上下階が部屋内で繋がってしまうというプライバシーもへったくれもない状況に陥ってしまったのはもう過去の話。

特殊なルームシェアだと割り切れていないのも事実だが。

話を聞くところによると彼女が上京した理由は俺と似ていて・・・。

今ある日常を放棄してまで手に入れたい新しい者、新しい場所、新しい世界のために考えることを許さず突っ走る猪突猛進なところも似ているといえた。

最初は彼女にも天井を破って落ちてきた後ろめたさのようなものがあったが、宴会の時には打ち解けることができた・・・と思っていたのだが今の遠慮深さは初対面の時よりはマシだが、似ていた。

「どうかしましたか?」

「エ、イヤ・・・・あの」

「?」

「ごめんなさい」

彼女の言っている意味が分からなかった。

しかし、彼女の目が語っていた。

「もう・・・・逃げられません――――っ」

玄関で隔てられた光と闇。

闇は急速にその姿を現した。









「逃げたか」

足の踏み場も無い、元々はリビングであったのであろう部屋には顔をも知らない少女が2人寝ている以外特に異変など無い。

俺――――【尾崎 篠丸】は方膝を付いて踏み場を無くしている空き缶の1つを拾い上げる。

缶の側面の洒落た絵、醸造酒独特の臭い、そしてこの部屋の惨状。

「お嬢様がお酒を・・・・?」

俺は空き缶を元の位置に戻すとリビングを床に転がる物と者を踏まぬ様にゆっくりと横断していく。

このままでは自慢のヘンリーブールのスーツに臭いが付いてしまうな・・・・。

ヘンリーブールとは英国風紳士服のブランド店の名で、この今着ているものはウール100%今季コレクションの限定モノだ。

この夏場に外で着るには暑いが、仕事の際には気が引き締まるのも事実だ・・・余談だが。

「(それにしても・・・)」

この部屋では何が起きたのだ。

いや、ビールの空き缶やら、つまみの空き袋を見る限り宴会に近いものが繰り広げられたのだろうが、これは散らかりすぎだ。

死人のように眠る少女が時折寝相を変えて除雪車のように空き缶を蹴散らしている、よく眠れるものだ。

その光景を遠めに見ながら、俺は寝室らしき部屋へ入る。

そこにはただ無造作に布団が敷かれているだけで、リビングよりは移動もしやすい。

部屋の光源はリビングからの光のみで、やや薄暗い。

しかし、それでもそれに気付くことができたのは当然なのか、たまたまなのか。

俺は天井に視線を向ける。

「・・・・・・・・・・・・穴」

天井には人一人が余裕で通れるほどの穴が空いていた。

床から天井まで2m強あるが、お嬢様なら踏み台が無くとも登れる高さだ。

俺はその穴の真下に立ち、床を蹴った。

「いらっしゃいませ♪」

「なっ・・・・」

上階の床へ降り立つと同時に耳を打ったのは僅かに弾んだその言葉だった。

ピンク色のソファーに座り、足を組み、俺が来るのを待っていたかのような態度だ。

下から素足にジーンズ、視線を上げると黒のタンクトップを身につけていた。

下ろした髪によって目元は覆われ、窺うことができるのは口元を歪ませた笑みのみである。

タンクトップから伸びる両腕は白く、一見した限りでは男とも女ともとれる容姿で、その中性さが不気味さを引き立てている。

「誰だ・・・?」

「初めまして、私はこの下階のお隣さんの【φファイ】と申します。まぁ、この名前はどちらにしろ意味の無いものになりますがね」

終始笑みを絶やさず喋るφとやらは突然現われた俺に警戒するどころか害意すら抱いていない。

何なんだコイツ・・・・。

「貴方にもそれなりの理由があってこの家に忍び込んだのでしょう。今なら見逃してあげますから、出て行ってはくれませんか?」

「・・・・・・・・・・俺には俺の事情がある。お前がお嬢様を庇うなら容赦はしない」

俺は袖口のボタンを緩める。

「交渉決裂ですか」

「そうなるな」

φは組んだ足を外し、大儀そうに立ち上がると高らかに告げた。

「今――――世界はズれる♪」









アレ? もしかして私、主観って初めて?

うっひゃー緊張する・・・。

どうもこんにちわ、私――――【φ】です♪

私って一応サブキャラの中でも結構良い位置にいる筈なんだけどなぁ・・・。

「出番少ないってツライねぇ」

「誰に言ってる・・・? っつーか、ここはどこだ?」

目の前の男―――そういや名前知らないや。

彼は目に見えない変化を敏感に感じ取ったようだ。

「ここは【何をしても拒まれない場所】」

「拒まれない?」

「そう。ここは世界の中点に存在する世界だからね。ここで出血多量の重症を負っても元の世界に戻れば”傷を負っていないことになる”。死んだら死にっぱなしだけど♪」

「では・・・・ここで物を壊しまくっても元の世界とやらには影響がないんだな?」

「まぁ、そういうことになるね」

私達はこの世界を【拒界】と呼んでいる。

そして、その名、存在を知らぬ者を自ら招いた時には【拒界】について説明する義務がある。

だってそうしないと死ぬ気で向かってくるし、傷治るのに。

まぁ、それが夢魔狩りの掟なわけだ。

「ならば・・・死なぬ程度に、痛い目にあってもらおう」

男の殺気が今までとは全く違う性質となって拒界に満ちる。

でもまぁ、せいぜい「それなりの修羅場を歩んできた」ってところだね。

それでは根本的なもので対等な位置には成りえない。

最低「死線を駆け抜けてきた」ぐらいじゃないと・・・。

”修羅場”と”死線”は大違いだ。

修羅場は生きるか死ぬか、死線はその中間で存在すること。

前者には分かりやすい2択が与えられるが、後者には躊躇することも許されない一瞬の決別が必要とされる。

死なない為の道は必ず一本しかなく、生きるために用意された道もそれ故に一本しかない。

私はそのか細く先が見えないほど長い道のど真ん中を走り続けてきた。

今手に入れた安息は、その年月からすると1mmにも満たない短いもの。

「(薫さん・・・ゲルニカ・・・アヤメちゃん・・・そして、ユッキー)」

彼らとの出会いはその1mmを永遠のように感じさせてくれた。

「(ごめんなさい)」

脳裏に焼きついた、しかしぼんやりとしか覚えていないあの時の彼。

彼は今も闘っている、死線を。

「(私は見つけてしまったんだ。私がいることを許してくれる場所を)」

同時に両手が疼いた。

10本の指が、それぞれ独立した意志を持つように蠢き、それぞれが同じ言葉を発す。

「(ちょっとだけ潤させて)」

地を蹴り、

「(乾いた私の両腕は)」

時空を蹴り、

「(あなたの鮮血を欲している)」

拳は速力の枠から逸脱し、世界の狭間を抜けて神速に帰す。









命の重み。

人はそれを知る。

ただ漠然と、その時がくれば知ってしまう。

命というものには限りがあり、死ぬまでの過程でどれだけ命を削ることができるかが人生という事柄においての”充実”だと言うならば、死ぬことによって生まれる一方的な感情の類もその”充実”の副産物ではないだろうか。

しかし、これは死に逝く者のみが得られる物であり、他者にとってはただその者の死が納得できるものか否か見極めるだけの要素に過ぎない。

彼女はその点では充実もしておらず、納得もされることは無いだろう。

彼女の命は岩石のように固く鋭い角を残し、触ることも許されぬまま闇の淵へと堕ちていった。

それは”死”だったのだろうか。

その時がくれば知ってしまう筈の重みはない、触れることすらできなかったのだから。

命の重み。

たまに人はそれを知らない。

それがどんなに大事であるかどうかなんて、不条理な死を前にして理解も納得もできる筈が無い。

死が”生”という道の”終着点”であるならば、彼女が辿りついたであろう場所は果たして”終着点”だったのだろうか。

彼女が行き着いた先は天国だったのだろうか、地獄だったのだろうか。

いや、そんなことはどうだっていい。

「(彼女は光を見ることができたのだろうか)」

眼下に広がる光の造形世界。

しかし蝕むように闇夜は光を呑み込み、黒に染める。

月明かりが照らし出す淡い影は我――――【夢魔王ナイトメア】の存在を希薄なものにする。

このまま消えることができるなら消えてしまいたい。

人生の”充実”など彼女が”終着点”への直通列車に乗り込んだ時に捨てている。

「その末の”王”か。我は何がしたかったんだろうな――――人を捨てて」

彼女がいる日常元の世界を取り戻すためさ」

両刃の剣【散逸せし魔道達レメゲトン】を片手に闇と同系色のシルクハットにスーツ姿の男が微笑を湛えて言った。

そう、我は取り戻す。

この男が作り出した芸術兵器【次第に弱く奏でる者マンカンド】があればそれができる。

【マンカンド】は【ゲルニカ】と同じく体内寄生型の兵器だ。

用いるためには媒介が必要なのだが、それももう獲得済み。

「【ヤドリギ】の調子はどうだ?」

「至って正常。いつでも始められる」

くつくつと喉で笑う男を尻目に我は暗黒に差す月光に兵器となった右腕を翳した。





ここから始まる。





あの忌々しい銀時計に封じられながらも切に願い続けた野望の成就が手中にある。

あとは少しばかり長い時間をかけて、指を一本一本折り曲げていくだけだ。

「そろそろ待たされるのも飽きた――――」

”気配”が”集まる”。

「各々の使命は別の所にあるかもしれない」

右腕が眩い紅色を纏い、放つ。

「しかし過程を共にする限り、一体となって闘おう」

紅は夜空を駆けて炸裂する。

「さぁ、ある夏の日の再来one summer days againsだ!!!!」



指を一本、折り曲げた。













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