拒界の空に月は無い。
この場所は天国・現世・地獄で構成されたトライアングルの中心であり、月は現世にしか存在しないからだ。
各世界のメリットを集めたようなこの場所に、地球の外側からでしか影響を与えることのできない月など必要ない。
つまり、この世界にデメリットは存在しない。
あくまで一方的な見解だが、俺――――【団長】と呼ばれている男はそう思う。
現世から拒界へ来た場合、拒界で受けた肉体的外傷は”無いもの”として来た時と同じ状態で現世へ戻ることができる。
現世でも拒界でも共有されるはずの肉体は世界のボーダーラインを超えることで切り離されるということならば、何故人間はこの世界を認知しない。
知ることで産まれる被害など存在しない、少なくともこの場合は。
だから俺はこの世界へと地球上全ての人間を導いてやる。
世界各国の首脳陣だけがその存在を知る桃源郷などあってはならない。
世界は俺達のものだ。
雰囲気に呑まれるという言葉があるように、人は見えぬ重圧というものに弱い。
そんなものが見えてしまった日には人など正気ではいられないだろう。
ならばそれを見ても尚、こんなことを考えていられる俺は、いよいよやはり人ではないようだ。
暗黒を背景に、さらに深い黒は魔道のダメージを無視して・・・いや、ダメージなどなかったかのように平然と歩み寄ってくる。
見える重圧の正体はまさしく鬼と化した【一ノ太刀 鬼丸】。
髪は逆立ち、眼光は全ての万物を射抜き消し去るかのような迫力を持って俺の身を刺し、立ち昇る黒煙のような殺気は辺りの風景が歪んで見えるほど濃い。
そして鬼の顕現の証である額から伸びた一角は天を仰ぎ、その存在感を示している。
憎しみや悲しみで強くなった者とは違う正義と信念によって塗り固められた力の集結に未だかつて感じたことの無い筋肉は弛緩し、反応を鈍らせる。
それ故にその事実に気付くまでそれ相応の時間を要した。
「無傷―――――かよ」
俺は自慢のシルクハットを深く被り直す。
「(魔道には―――――)」
魔道には属性というものがあり、RPGのような精霊が存在する。
精霊は大きく分けて”陽”の力を持つ【聖】【火】【天】の3種類にその対極の”陰”の力を持つが【闇】【水】【地】の3種類、合計6種類ある。
全ての属性には特性があり、例えば【聖】なら治癒能力に秀で、【闇】なら呪術が傑出している。
その6種類ある属性の中でも【火】は最も高い攻撃力を備えた魔道を使うことができる。
先程使った魔道はその【火】でもトップクラスの魔道である。
魔道とは自身の【魔力】(東国では【気】と呼ばれるようだが)を込めるだけというシンプルな力だ。
シンプル故に心身の状態が大きく左右する繊細な面もある。
相手を殺す気で使えば魔道もその意志に応えてくれるし、逆に油断などすれば威力は激減する。
俺は消し炭にする事も厭わず本気の本気で魔道を放った、あれを喰らえば骨の1本や2本では済まない筈だ。
しかしゆっくりとした歩調で歩み寄ってくる鬼は骨どころか傷1つ無い。
これは鬼丸の防御能力云々の話ではない。
「(幾重にも積み重ねられた鋼の意志と鍛錬の結晶・・・力を追い求め続けた者の頂ってやつか)」
喉の渇きを潤そうと唾を飲み込む音が全く違う人間が発したもののように感じられる。
意識は身体から離れて全く別の所へ行ってしまったような、懐かしい感覚。
魔道を秘めし剣【散逸せし魔道達】の柄を握り直して溜息を吐く。
「アンタの視界に入るだけで生きている心地がしない・・・・こんなに死にたいと思ったことはないね」
言うならば、生と死を渡す吊橋の真ん中に取り残されたような感覚だ。
生きてもおらず死んでもいない。
そんな微妙な、しかし目の前の鬼が少し腕を振るえば一方に傾きかねない状況下でまだこんな無駄なことを考えていられるのか。
負の感情とは新たな自分を見つけ出してくれる、そしてそれは新たな感情を生む。
「・・・だが、それ以上に俺はこれほど生きたいと思ったこともない」
汗で滑る柄を再び握り直し、剣に魔力を込める。
「生きる為ならば人は手段を選ばない・・・・・・それが人でなくとも」
「ならば――――その手段を見せてみろ」
あのバカ長い刀を片手で振り薙ぐとゆっくりとした動作で刀を下段に構え、鬼は一歩で千里を跨ぐ。
僅かに反応することができた。
鬼は光のように背後へ回り、その長刀を力任せに振り抜く。
雑な斬撃も今なら十分脅威―――――
「って、言ってらんねぇっつーの!!!」
振り向き様にレメゲトンで防御する。
その威力は凄まじく、ブチブチと利き腕の筋が切れた。
「(止めた・・・)」
だが、次の瞬間予期せぬ衝撃がレメゲトンを通じて届く。
鬼丸は初撃の衝撃が伝わりきらないまま、刀を鞘に戻して居合い抜くという神業を悠々とやってのけたのだ。
身体は意志に反して後方へと弾丸のように弾かれるが、剣を突き立てることで火花を散らせながら停止を促すと、レメゲトンを握った右手の筋が悲鳴を上げた。
刹那、黒刃の煌きが眼球まで1mm足らずの空間を薙ぐと同時に腹部を掌打が射抜くように打ち込まれる。
身体がくの字に折れ、重力を無視して吹き飛ぶ。
外れ落ちそうになるシルクハットを余った左手で押さえながら攻撃の手を止めた鬼丸に視線を持っていく。
「(―――――刀身が黒い・・・・!)」
刀身が全く透明だった先程までとは違い、今はそれそのものが生命を宿しているかのような脈動する黒が露になっている。
しかし、その黒は威圧感や殺気などを放っているわけではない。
だが、だからといって油断はできない、アレは―――――
「災厄のようなものだ」
「何?」
「この――――」
言いながら眼差しは暗黒の刃を愛でるように撫でる。
「この【機怪刀・霧島躑躅】の刀身を目にするという事は、災厄のようなもの。そう言ったんだ」
鬼丸の言うとおりだ、恐怖や威圧を放っているわけでもなく、それでも俺の危険センサーはレッドゾーンを振り切って未知の領域にまで達している。
話には聞いていたが、これ程とは――――
「貴様がどこまで知っているのか?そんな事は今や聞くまい。この世界でワシを相手に嬉々して刃を向けたのだ。この刀がどういうものなのか、知っているのだろう?」
「【語られることの無い歴史】に幾度となく登場してきたんだ。知らない筈がない」
「それを知って、まだ立ち向かうのか?」
「無論♪」
「ふむ・・・・その強気な態度に免じて―――――」
殺気が、阿修羅を形取り、鬼の背後で仁王立つ。
「選ぶがいい。両腕両足、どこを繋げておきたい? そう疑るな、現世へ戻れば治る傷だ。だから死と同等、後悔しろ。【世界の真実】にこの領域はまだ早い」
そして刃は虚空を薙ぐ。
何も無い空間を斬った筈の刃は確かに俺に届き――――
右腕を根元から切り離した。
片手の指を折って数えられる程、一学期の終業は迫っていた。
真夏真昼の屋上には太陽にじりじりと焼かれたアスファルトの熱気と蝉のけたたましい叫び声、そして私――――【獏羅 香織】と咥えた棒付きアイスだけが存在していた。
私立一ツ橋大付属高校は校舎の屋根全体が見上げる高さのフェンスで囲われた屋上となっている。
だだっ広いだけで何も無いその空間も屋上という独立した世界であると意識すれば若干の面白さとも出合える・・・かもしれない。
「ふぇふぁっ」
アイスを咥えた口だけが周りの夏から逸脱した世界となって「冷たっ」という言葉も意味不明なカオリ語に翻訳される。
まったくもってアイスは素晴らしい。
こんな真夏でも咥えている間は涼しげな気分にさせてもらえる。
少なくとも、今は、今だけは涼しげな方がいい。
「・・・・・しゃふぇ(さて)」
その日の夜の記憶は曖昧かつ明確だ。
警官仲間達と徹夜で麻雀して、負けに負けたバツゲームで長官のために野口さん片手にカップ麺を購入するためコンビニへ走り、その帰りに何故か拒界へ入って長官は突如来襲したシルクハットの男と刃を交えていたところまで覚えている。
そして、その後の記憶がさっぱりと抜け落ちているのだ。
「(そう――――元々そんなことがなかったかのように)」
しかし、その記憶が確かであることを証明できるものがある。
”この指輪”だ。
右手の薬指に嵌めた指輪を太陽に、見せ付けるように、翳す。
黒ずんだ年代物のリングに装飾品は小さな小さなダイヤだけ、他に変わった細工もないようだし――――あるとすればリングの裏面にミミズのような書体で文字が彫られているだけ――――。
「(まぁ、このレトロな感じが良いんだけど)」
あの日から私はいつもこの指輪をつけるようにしている。
この指輪の持つ魔力のようなものに引き寄せられるように、あの時この指輪を見つけることすらも必然であったかのように、私は身体の一部として指輪の存在を許していた。
アイスの表面を舌で撫でながら口いっぱいに広がる甘いバニラの香りと涼しげな薫りを堪能しつつ、視線をフェンスの向こう側へと向ける。
いよいよ夏本番といった感じだ。
視界全てを奪う氷の銀世界からでも、小鳥囀る山林からでも、冷たく打ちのめされた街からでも、大都会の少し高い視線からでも、見上げればそこには広がる青の配列に、取り残されたようなソフトクリーム。
「夏、こんにちわ・・・」
瞳を閉じて、ゆっくりと開く。
「灼熱の日照り、毎年どうも♪」
天高く、放り投げる、アイス棒。
「・・・・・・名句?」
真の夏到来。
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あぁ・・・ダルい、血が足りねぇ。
俺は――――皆から【団長】と呼ばれているのだが、ここにいるのは俺一人だから「団」という字が適用されるべきなのか・・・生きてたら辞書を引いてみよう。
そもそも何故俺は団長と呼ばれているのだ?
基本的に一人でいることが多いのに不服・・・とまではいかないが矛盾を感じる。
「(やべぇ、深刻にやべぇ)」
俺は痛みすら感じることのできなくなった左腕で、地面を撫でる。
「あった」
黒のシルクハット、俺のキャラクターを守るための必須アイテムだ。
それをゆっくりと頭まで持っていき、顔を隠すようにして被ったつもりなのだが、上手くいかずに頭からずり落ちた。
「派手にやられたな?」
頭上からかけられた声音には、嘲りがなければ屈託もなく、あるとすれば関心の無さぐらいか。
路上に仰向けに倒れていることと太陽が光源が顔の真上にあることから、覗き込むように顔を突き出した者の表情を窺うことはできない。
まぁ、恐らくいつもと変わらない仏頂面だろうけど。
まったくこの男は昔からそうだ。
自分の興味のあることにしか目が向かない、B型か?
いや、マイペースだからといってB型と決め付けるのは、そういう先入観を植え付けられた人間の汚点か。
・・・そんなに深く考える必要も無いわけだが、ともかくこの男は野望には純粋で率直だ。
「肋骨左右二本骨折」
「何?」
「脇腹が大きく引き裂かれている、出血多量。両足が大腿骨でギリギリ繋ぎ止められているようだな―――目立った外傷といえば・・・」
「・・・呑気に被害報告する暇があるなら助けろよ」
これがこの男の他人に向ける感情の表現の表れであることは分かっているのだが冷静な口調で気の滅入るようなことを言わないで欲しいな・・・。
血が足りなくて気分悪りぃのに余計悪化しそうだ。
「右腕」
「ぁん?」
「斬り落とされたのか?」
「あぁ”お前と同じ”だ」
「・・・我は肘から下だ」
確かにそうだが、大した差じゃないような・・・。
俺は拒界で斬られたから、現実世界へ戻れば治るし。
「ともかくこれ以上出血すれば死にかねん。未だ死んでいないのが不思議なくらいだ。出るぞ」
「ヘイヘイ・・・」
俺は腹筋だけで上体を起こすと、そのまま一見すれば”壊れた両足で立ち上がる”。
「やはり便利なものだな、その身体は・・・」
「これも何度にも及ぶ転生の賜物ってやつでね」
シルクハットを拾い上げて深めに被り、近くに転がっていたレメゲトンの柄を握り持ち上げる。
その様子を見て小さな溜息を吐く男――――【夢魔王】は身を翻し、戻るべき世界への扉を開き、一歩足を踏み入れる。
「強かった。やはり歴戦の鬼だ、衰えを知らない」
そして俺の両足も現世の地を踏む。
すでにあの男の姿は無い。
「・・・疲れた」
しかし、こちらの手札を見せてまで戦ったメリットはあった。
「【ゲルニカ】と【指輪】の所在が分かれば、あとは―――――」
空を踏み越えて雑踏に紛れる。
「あとは――――メシか?」
そうだ、取り合えずメシを食おう。
腹が減っては戦はできねぇ。
ましてや世界を揺るがす大戦争など――――。
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