昼間の炎天下に打って変わって、人々のほとんどが寝静まる頃、外界を雨が地を打つ音だけが支配していた。

都会の腐った排気ガスや目が痛くなるほど明るいネオンの光はこの空間には微塵も存在しない。

ただ闇と呼ばれる絶対的な暗黒が広がっている。

ここは都心に新しく建てられた美術館。

今日はその開館前日であり、もちろん誰もいるはずが無い。

油絵の独特な匂いとシンナー臭の残るこの空間、それは誰もいる筈の無い美術館を歩く俺にとって何物にも変えがたい至福の場所。

絨毯の敷き詰められた床を慎重な足取りで踏みしめ、一歩…また一歩と踏み出す。

壁に飾られた絵画を鑑賞したい、圧倒的な私欲を圧倒的な自制心で相殺する。

そんなことをしている場合ではない。

そうは思いつつも目が絵画の方へ向かってしまう。

あぁ、あれはジョルジョーネの【テンペスタ】。

あっちはドッソ・ドッシの【アイネイアスの物語】。

なんと…あれはミケランジェロ・ヴォナローティ【アダムの創造】。

どれも盛期ルネサンスを代表する画家達の作品だ。

3割の私欲と7割の自制心は今にもちゃぶ台をひっくり返して逆転しそうだ。

それほどの魔力を彼らは持っていた。

だが、それは。

「いつだって見ることが出来る」

呪文のように呟くと私欲を御して誘う絵画から視線を外す。

俺は動く、ゆっくり、ゆっくりと。

その暗黒の先にある俺の欲望を100%引き出す、人のロマンと夢が詰まった箱を目指して。

闇と共に俺が目指すもの、それは目前で今も時を刻み続ける時計。

それがただの時計なら欲望どころか芸術的価値も周りに飾られた絵画に比べれば無いに等しい。

しかし、やはりただの時計ではないのだ。

これは寸分の狂いもなく時を刻み、尚且つ”永久機関”を持つ時計なのだ。

永久機関とは永続的に運動を続ける機械(装置)のことで、現代の技術では不可能とされている技術である。

だが、この時計は実際500年もの間止まることなく動き続けている。

何故そんな昔から永久機関を持つ時計を作り上げることができたのかはわからない。

ただそれは確かに存在するもので、一般大衆はその事実を真っ直ぐに受け止めることしかできない。

それ以上何か行動を起こす必要が無いからだ。

しかし、暗黒を歩む俺は一握りの”歪曲して受け止める者”であり、この時計の事実を知っている唯一の”生物”。

俺はショーケースの中で鎮座する時計を視界が真っ暗な中でも歓喜に溢れた眼差しで見つめる。

今すぐにでもショーケースをぶっ壊して頬擦りしたい衝動に駆られるが最早反射的なまでに神速化した自制心のストッパーによってその行動はギリギリのところで止められた。

”それ”を凝視する。

時計の形状は置時計に分類されるようだ。

それをさらに分類すると【アンチモニー枠】、アンチモニーとは鉛とアンチモン(窒素族元素の一)数%の合金のことで、その合金を枠に使われた時計ということだ。

アンチモニーは材質が柔らかく加工しやすい性質を持ち、微細な模様も鮮明に表現することができるという優秀な金属で今もオルゴールやアンティーク等に使われている。

アンチモニー産業の始まりは江戸時代末の約200年前。

幕府の彫刻師であった名匠が、幕府の消滅により失業し、様々な創意工夫の結果アンチモニーと鉛の合金が合流して現在に見られるアンチモニー製品が創造され、今に至った。

何故200年前に発見された技術が500年前に存在するのか、それは正式な形として世に出たのが200年前なだけで盛期ルネサンス以前からこの技術は浸透とまではいかなくとも芸術家達の間で使用されていたというのが理由だ。

芸術という面で突出した力を誇る欧州は【Concealed Technology隠された技術】の宝庫といえる。

素材が分かったところで次は外、実は俺にとって素材などどうでもいい。

器を見ることも大切だが、ただの鉄の塊だ。

芸術は内面・・・本質でその価値が決まるといっても過言ではない。

その時計は周りの暗黒を反射するように異彩を放っていた。

15世紀前半レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた【リッタの聖母(聖母子)】を模して枠にしているようだ。

聖母に抱かれているのは赤ん坊ではなく今も時を刻み続ける丸時計。

純銀で塗装された聖母には一点の曇りも無く、瞳は蒼のサファイアが埋め込まれている。

俺はそれに平和を願う”聖母そのもの”を見た。

いつまでもこの平和が、この平穏が続きますように。

そんなダ・ヴィンチの願いを3Dの形で表現した作品といえる。

俺はゆっくりと手を伸ばしてショーケースを一撫で、触れることによって作動する類の防犯装置はついていないようだ。

ならば、簡単だ。

今までの慎重さとは裏腹に大胆にもショーケースを破壊し、中身だけを掻っ攫い、逃げる。

というのがベストとして実際は7割成功した。

中身を傷つけないようにショーケースを破壊したところまでよはよかったのだが、一番重要な部分が割合に含まれていない。

「これは……偽物だ」

手にした時計をショーケースに戻し、毒づく。

「”無敵の獏”め、小癪なマネを……」

刹那、大音量の警報が鳴り響き、ザワザワと辺りが騒がしくなったと思うと、二桁を超える警官が銃片手に俺を包囲する。

同時に、それこそ一斉に暗黒を光が覆い、俺は突然の光に眼を瞬かせる。













私にとって彼との死闘は生きがいであり、つまらない生活を潤う砂漠のオアシスのようなものだ。

だって刺激の無い人生なんてつまらないと思わない? 少なくとも私はつまらないね。

そしてまた今日も、その人生の湿気を追い払うため、私はここにいる。

警報が鳴り響く中、私は警官達を操作して彼の逃げ場を無くす。

それは所詮”人の力”で突破できるものではないけれど、彼にはただの道端に転がる石ころにしか過ぎないのではないだろうか。

大型ライトの光に晒された男は額にかかった髪を邪魔くさそうにどけると、その清楚な容貌が明かされた。

人間の性別で言うならば恐らく男性の枠に入るだろう。

全てを見透かしたような深い漆黒の瞳、その左側を少し大きめのモノクル(単眼鏡)が覆っている。

健康的な小麦色の肌、無駄な脂肪のない豹のような滑らかな筋肉を持つ両腕が肩口から露出されている。

黒豹を思わせる体躯、鋭い双眸が警官の波を割って進む私の姿を認識すると、彼は反射的に臨戦態勢に入った。

私の名は――――【獏羅 香織】。

”人間”という種族、最強の女。

「四面楚歌とはこのことね、大泥棒?」













腹が立つほど憎たらしく聞こえるその声と同時に彼女の前の波が引き、大股で――――【俺】の前へと歩む。

俺とは頭1つ分の差がある彼女の身長だが、気品に溢れた容貌と矛盾した野蛮な”暴”はその差を全くといっていいほど感じさせない。

少し茶の混じった髪のショート、瞳は僅かに緑色がかっている。

そして、こんな夜更けに寒くないのだろうかと心配してしまうほど、堂々とへそ出しルックなのだから恐れ入る。

【無敵の獏】と呼ばれる日本警察が誇るのバトルマニア。

現役高校生【獏羅 香織】でありながらその知と才を認められ、今は警察で言うところの警部の地位に就いているというコチラの世界ではちょっとした有名人だ。

ただ才能があれば誰でも警部になれる世ではない。

それには理由があり、その大半を占めるものが”暴”だ。

その”暴”を知りながらも俺はウンザリとした声で言う。

「その台詞、今ので28回目」

微笑混じりで答える俺に対し、彼女はふふんと鼻で笑って拳を突き出す。

「それも今回で終わりよ!」

ちなみにこれは記念すべき30回目。

彼女は俺専属の警部で(日本警察で俺に対抗できるのが彼女だけということもあるのだが)、今まで数々の死闘を繰り広げてきた。

その戦歴35戦35勝0敗、俺の勝ち越し。

野球ならマジックがついてもおかしくない勝ちっぷりである

戦闘力はほとんど互角ながら、ここまで差が出るのにはワケがある。

「(真っ直ぐな警察と、歪んだ泥棒)」

俺は瞳と同じ色の髪が視界にチラつくのを気にしつつ、モノクルのフレームにある小さな突起に触れる。

モノクルのレンズに暗く淡い光が灯る。

それに獏羅は気付かない、いつも詰めが甘いのだ、と俺は心中でほくそ笑むと右目を瞑る。

「(【眼】、感度良好……)」

「これからアナタの犯した罪状を読み上げます」

笑顔満開の顔を見て、溜息を吐き、大人しく罪状を聞く。

「”平成の大怪盗(自称)”・”芸術泥棒(自称)”こと【レンブラント・ファン・レイン】」

通称【レン レイ(レンでワンテンポ置くのがミソ)】・・・つーか、俺は絵画・アンティーク専門の泥棒だ。

今まで世界各地の芸術作品の盗取を成功させているが、その道ではなかなか知られている方だ。

最近ではレンレイが日本人であるということが分かり、ネット上で”平成の大怪盗”と騒がれた事から自らそう名乗るというなかなかファンを大切にするお方だ。

「えっと…住居侵入・公居侵入・窃盗・殺人未遂・銃刀法違反……あぁ、面倒くさい。その他モロモロ以上!」

「待て、その殺人未遂って何だ。俺は誰も殺そうなんて―――――」

「以前、私が死にかけた」

「OK、殺人未遂許可」

というわけで、と深呼吸の後、笑顔を持続させて言った。

「大人しく捕まる?」

「冗談?」



「確保します」



俺の鼻先を何かが掠った。

それを高速で繰り出された獏羅の蹴りであることを認識するよりも速く後方へ飛び退る。

「コレなかったら死んでたかも?」

微笑を携えながら俺はモノクルを人差し指で軽く叩く。

「First eye…」

First eye第一の眼】は血流を見ることが出来、俺の左目はサーモグラフィーのような温度分布図にちかいものを見ている(ちなみに普通のサーモグラフィーの効果も果たしている。血流はあくまで俺が見て分かるものであり、変化は微細なものである)。

様々な体術をマスターした獏羅の”潜在的戦闘能力”は川の水面のようでありながら瞬間的な”気”の伝達を可能にする。

”気”とは収束を意識した部分に集まる血流と同じ、第一の眼はまさに気の流れを見ることが出来るといっても過言ではない。

実際、これが作動していなければ光速で脚部に収束した気を読み取ることもできずにコンクリートを粉砕する彼女の蹴りの餌食となっていただろう。

「それがある限り私の動きは丸見えなわけだけど…そんなのいつもと同じこと、力で押し切る!」

獏羅は気の収束そのままに地を蹴った。

彼女の踏み切ると同時に床に穴が開いたが全く気にする素振りも見せず気を両腕に集め、神速とも言えるラッシュを繰り出す。

俺はその動き一つ一つを左目で追い、常人では到底追い着くことのできぬ速さで放たれる拳を余裕を残しながらも捌く。

俺の”暴”も、その域に達している。

「キミと俺の戦闘力はほとんど互角。しかし、俺にはまだ”第二の眼”が残っているんだよ? もういい加減諦め―――――」

刹那、俺の状態が揺らぐ。

神速の拳を目暗ましに使った閃光の足払い。

背から崩れる俺の腹部目掛けて気の収束率100%のカカトが振り下ろされる。

それを同じく足払いで軸足を崩すと獏羅のカカトが空を裂く。

体勢を立て直される前に起き上がり、間合いを取る。

「どうやら俺はコレを当てにしすぎていたようだね」

モノクルを撫でながら浅い溜息を吐く。

「気の収束が血流(熱)の濃さで分かると言っても、キミのレベルなら一番動作している部分(今の獏羅の場合両腕)を意識しつつ本命(足払い)に気を瞬間的に移動させることも難しいことじゃあないからねぇ。さて、そこで提案です」

一呼吸置いて屈託の無い笑みを浮かべながら。

「頭の良いキミなら分かるよね? この”眼”、このまま使っていて欲しい?」

問い掛けられた獏羅は無言で答える。

「やっぱり…YESだろうね」

クツクツと笑いながら小さく舌打ちする獏羅を見て、やはり笑う。

「第一の眼の弱点―――と、言っても全ての【眼】に言える事だが―――は血流の流れを見る場合、右目を瞑らなければならないということ。距離感を失った攻撃は当たり難いし、防御の面だと回避が難しくなる。これはあくまで【怪盗レンレイ】の業務用として作られたものであって戦闘用のものではないからね、仕方の無いことだけど」

「言われなくとも分かってるわよ。で、心優しき怪盗レンレイは眼を使ってくれるのかしら?」

俺は鼻で笑う。

「嫌がらせ大好きの俺が、その要求を呑むと思うのかな?」

「このっ――――」

「キミと遊ぶのも飽きちゃった。どうせその時計【永久永劫の平和】、偽物でしょ? 本物はそんなに綺麗なメッキじゃない。貴金属が空気中で酸化されにくいといっても500年も経過しているのに錆び1つ無いのは逆に不気味だよ。でも「デザインは良かった」アレ作った人にそう言っといて」



―――――それじゃあね、綺麗なお姉さん♪



言い切ると俺は周りの人垣を軽く飛び越える。

俺が逃げた場合「追うな」と獏羅に命じられていたのであろう警官達はその放物線を描いて着地する姿を呆然と見るだけだ。

彼らはあくまで俺を包囲し、自分獏羅との戦闘に持ち込むためだけのリングに過ぎないのである。

追うように獏羅も駆けたが、諦めた。

今から追ったところで追い着ける相手ではないことを彼女が一番知っていた。

「完敗ね」













すぐさま警官達に撤収を呼びかけ、私――――【獏羅 香織】は騒がしくなる美術館内の柱にもたれ掛かり、ポケットから取り出した携帯を操作して通話ボタンを押す。

コール2回で繋がった先には警察の長である警察庁長官がいる。

「すまんな、今懐かしの名ゲーム”テトリス”にハマっていたところだ…よし、縦棒! 来た、縦棒! ………そうだ、ソコだ。いよぉし、四段消し!」

深夜だからなのか人柄なのか、電話の向こうで長官はハイだ。

「むぅ、スマンスマン。さて………どうだったかね?」

縦棒で喜んでいたときとは打って変わった渋い、それでいて透き通った声音は感情の昂った私を静めるほどの力を持っていた。

「申し訳ございません」

力無く謝る姿はどこか説教されている悪ガキを思わせる。

「彼の強さは私達も理解しておる。民間であるキミに手伝ってもらって…謝りたいのは私の方だよ」

「いえ、そんな………」

「彼は何か言っていたかね?」

「いえ……あぁ、あの偽物を作った方に「デザインは良かった」と伝えてくれと」

「ほぉ、そうかそうか。ワシも頑張った甲斐があったというものだな…しかし、さすがの美術専門の泥棒だ」

豪快に電話口で笑う長官は本当に嬉しそう。孫に名前を呼んでもらったお爺ちゃんを連想させた(実際そのぐらいの歳だ)。

「(って、あの時計、長官が作ったの?)」

初めて会った時から思っていたことだが、この人は何気に凄い。

長官室には剣道や柔道の段位状、書道の段位状、アーチェリーのアマチュア大会の優勝トロフィー、ゴルフ全国アマチュア大会のトロフィー(3位)、その他数々の名誉と栄誉の証が飾られていた。

長官なんだから、と私は微妙に納得していたがここまでくると、何故長官をやっているのか疑問に思えるほど凄い人なのだ。

「(ある意味人間じゃないわね、長官もアイツも)」

アイツとはもちろん今先ほど逃したばかりの癇に障る怪盗のことだ。

「さて、今日はもう遅い。明日も学校だろう? ご苦労だった、休んでくれ」

それだけ言うと、恐らく頬緩みっぱなしのまま長官は電話を切った。

「疲れた……アイツと戦うより、今の電話の方が」

肩を落とし、携帯をしまうと足早に出口へと向かう。

すれ違う部下(友達みたいなものだ)に別れを告げながら美術館を出ると、冷たい夜風が私の頬を撫でた。

どうやらまだヘソ出しは早いようだ。私は寒さに身震いしながらも帰宅路を歩む。

雨は小降りになっている











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